テイクウヒコウ−1
朝から降り出しそうだった雨が遂に地面を濡らし始めた。
これからまさに持久走のタイム取りを始めんとしていた男子生徒達は、
やれやれと渡り廊下の軒下に避難した。
雨は見る見るうちに勢いを増すが、東の空は明るいままだ。
きっと通り雨だろう。
不二と菊丸は並んで昇降口の階段に腰掛けた。
「あああ。盛大に降ってくれちゃって。これじゃあ、今日の部活はコート整備で終わりだよなあ。」
雨で濡れた髪の毛が好き勝手に跳ね返り始めたのが気になるのか、
指先で髪の毛を弄びながら菊丸が呟いた。
「そう?意外と好きなんだけどなあ。コート整備。」
「知ってるよぉ。大体去年までは、雨の後のコート整備なんて下級生の仕事だったじゃん?
でも、不二や大石が進んでコート整備に出るもんだからオレ達も見てるわけにもいかないじゃん。」
「あはは。ゴメン。あれ趣味だから。別に英二達まで巻き込むつもりはなかったんだけど。」
「ちぇっ。別にいいけどさあ。」
口を尖らせて空を見上げる。雨足はまだ強いままだ。
「なんかこう。コートの水をスポンジで吸って。バケツに空けて。また吸って。バケツに空けて。
あの作業続けてると何だか無心になれるんだよね。」
確かに。責任感から進んで整備に出る大石とは違って、
スポンジのかけらを握ってコートの水を吸い取る不二は何だか楽しそうに見えるのを菊丸は思い出した。
「やっぱ、不二って変わってるよ。
お陰で今や雨の後は部長の手塚までコート整備に…」
一瞬雨足が弱くなった狭間を縫って、どこかからピアノの音が聞こえる。
「あ。手塚。」
突然不二が小さなく呟いた。視線の先を追ってみる。
渡り廊下ひとつ隔てた音楽室の窓に、端正な手塚の横顔があった。
「にゃににゃに?手塚?音楽の授業中?」
音楽室の手塚は、いつもの様にピンと背筋を伸ばしたまま、目を閉じ腕組みをして俯いている。
手塚はいつも変わらない。コートに居る時も。教室に居る時も。
例え校内ですれ違おうと、街で出会おうと、いつもその端正な佇まいが変わることは無い。
「あーっ。残念無念。レコード鑑賞か。歌でも歌ってる姿が拝めたなら面白かったのにい!」
あのしかめ面ばかりの手塚が、歌など歌わされている姿はさぞ面白かろう。
同意を求めようと傍らの不二に視線を移した菊丸は、
不二の意識がここには無い事に気付いて、彼の顔を覗き込んだ。
「手塚、最近笑わなくなったよね。」
まるで、漢詩でも詠唱するような抑揚の無い口調に不二の真意を測りかねた菊丸は、
自分がどう答えるべきなのかを決めかねて一瞬躊躇する。
「何言ってるんだよ。手塚は元々無愛想じゃん。」
「うん。それはそうなんだけどね。」
「手塚がニコニコ笑ってたりしたらこっちの方が気持悪い。」
そうかな。そりゃあ、手塚はいつも無表情に見えるけど。
言いかけて言葉を飲み込む。
菊丸は敏感だ。下手な事を口走れば変な気を廻しかねない。
三年生が引退し、新チームが発足して半年。もう一月もすれば自分たちが三年になる。
圧倒的な実力と、統率力を持った手塚を部長に抱いた新チームは
名門青学テニス部の歴史に置いても、かつて類を見ない勢いを得た。
放課後、手塚が降り立つだけで、コートの中がぴりりと引き締まる。
テニスの実力に加えて、その統率力。強靱な精神力。加えて、頭脳明晰眉目秀麗。
誰もが手塚に敬意を表し、畏れにも似た憧れを持つ。
うん。それはそうなんだけどね。
「手塚を部長にしたの、間違ってたかも知れない。」
口に出してしまってから、菊丸の表情が微妙に変化した事に気が付き、
自分がまた不用意な発言をしてしまった事を後悔する。
しまった。今日の自分はどうにかしている。
菊丸は敏感だ。容赦ない反撃を覚悟した瞬間、集合の笛が鳴った。
雨は降り止まない。きっと自習になるのだろう。
「行こう、英二。集合だよ。」
何か言いたげな菊丸を遮るように不二は立ち上がって歩き始めた。
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